https://ameblo.jp/hosonofujun/entry-12949292420.html
2025年12月07日
2025年12月05日
2025年11月22日
かたいはなしですが
帝国憲法はプロイセン憲法を範にした。
言葉は悪いが、パクったのである。
しかしそれはニッポンに暮らす人々の「範」にはならなかった。
帝国憲法に違反する者は処罰される。
だが、罪なきその他大勢にとって、
帝国憲法は権力者の力を鼓舞し強調する装置でしかなかった。
体制の護持である。
パクったはいいが、その後に起こりうる、まねきうる事態を想定できなかった。
統帥権干犯問題。
解釈論に終始。
統帥権とはなんぞや。
条項を整理し、修正するまでには至れなかった。
手続の欠落がそれを招いたのではあるまいか。
日本国憲法とて、帝国憲法と似ている。
おしつけられたのは敗戦国なのだからその通りであろう
ではそのとき、
日本国憲法の根本思想(基本的人権・三権分立)を自ら描くことができる者は、
果たしていたのだろうか。
日本語を使い、
自力でこしらえ、
よりましなものへと変えていく。
その発想・知識・勇気・力を併せ持つ者はいたのだろうか。
パクるか、押しつけられるかしか経験のない者に欠けているもの。
それは徹底である。
徹底して検証する根気、
甘えを許さぬ判断のための認識と気力、
なによりも体力。
戦後、ニッポンはアメリカ合衆国をまねるべきであった。
徹底して、その成り立ちからをまねるべきであった。
その過程のなかで、徹底して学び直し、
清濁を見極め、
ニッポンを徹底して見直すべきであった。
そこにこそ自立の可能性が秘められていたはずである。
いまを謳歌できているのは、
この押しつけられた憲法下であることを忘れてはなるまい。
言葉は悪いが、パクったのである。
しかしそれはニッポンに暮らす人々の「範」にはならなかった。
帝国憲法に違反する者は処罰される。
だが、罪なきその他大勢にとって、
帝国憲法は権力者の力を鼓舞し強調する装置でしかなかった。
体制の護持である。
パクったはいいが、その後に起こりうる、まねきうる事態を想定できなかった。
統帥権干犯問題。
解釈論に終始。
統帥権とはなんぞや。
条項を整理し、修正するまでには至れなかった。
手続の欠落がそれを招いたのではあるまいか。
日本国憲法とて、帝国憲法と似ている。
おしつけられたのは敗戦国なのだからその通りであろう
ではそのとき、
日本国憲法の根本思想(基本的人権・三権分立)を自ら描くことができる者は、
果たしていたのだろうか。
日本語を使い、
自力でこしらえ、
よりましなものへと変えていく。
その発想・知識・勇気・力を併せ持つ者はいたのだろうか。
パクるか、押しつけられるかしか経験のない者に欠けているもの。
それは徹底である。
徹底して検証する根気、
甘えを許さぬ判断のための認識と気力、
なによりも体力。
戦後、ニッポンはアメリカ合衆国をまねるべきであった。
徹底して、その成り立ちからをまねるべきであった。
その過程のなかで、徹底して学び直し、
清濁を見極め、
ニッポンを徹底して見直すべきであった。
そこにこそ自立の可能性が秘められていたはずである。
いまを謳歌できているのは、
この押しつけられた憲法下であることを忘れてはなるまい。
2025年11月17日
しったことか
なぜこうも人は面倒であるか。
がが強く、
いたみには弱い。
やっちゃいけません、
といっているのにやっちまう。
ダメだよとおそわったはずなのに、
ダメをする。
繰返す。
そりゃぁ、
いいこどだ、
なんてことはたまにしかしない。
人に迷惑はかけないとおもっているのに、
結果、
迷惑をかけとおす。
迷惑ついでにひらきなおる。
あちらでもこちらでも。
なんどもなんども繰返す。
心配いらない、
といいながら、
めっちゃ心配をかけつづける。
なんて人は厄介なしろものだろう。
なにかが足りないからなのだろうか。
なにかが抜落ちているのだろうか。
なにかが過剰なだけなのか。
足るを知らないだけではないのだろうか。
気づかないまま命をまっとうしているだけの人生ばかり。
人は、
いったい何人生まれ、
去ったのか。
これから何人生まれ去っていくのか。
いつまでも繰返せるものか。
反省はしない。
反省はしたふりにすぎないのか。
反省したとして、
はて、
反省されているのだろうか。
こんなにことばであふれているのに。
じぶんのことばっかし。
人が多すぎるから。
訳は単純。
たぶん違わない。
それにしても、
人の多いほうへ多いほうへ流れていく。
なぜだろう。
さびしんぼ?
とくにアジアはいちじるしい。
アジアはさびしんぼのかたまりなのか。
人がふえつづけるということは、
それ同量の厄介がふえることでしかない。
こんな地上に未来などない。
それでいいのだろう、
たぶん。
しったことか。
がが強く、
いたみには弱い。
やっちゃいけません、
といっているのにやっちまう。
ダメだよとおそわったはずなのに、
ダメをする。
繰返す。
そりゃぁ、
いいこどだ、
なんてことはたまにしかしない。
人に迷惑はかけないとおもっているのに、
結果、
迷惑をかけとおす。
迷惑ついでにひらきなおる。
あちらでもこちらでも。
なんどもなんども繰返す。
心配いらない、
といいながら、
めっちゃ心配をかけつづける。
なんて人は厄介なしろものだろう。
なにかが足りないからなのだろうか。
なにかが抜落ちているのだろうか。
なにかが過剰なだけなのか。
足るを知らないだけではないのだろうか。
気づかないまま命をまっとうしているだけの人生ばかり。
人は、
いったい何人生まれ、
去ったのか。
これから何人生まれ去っていくのか。
いつまでも繰返せるものか。
反省はしない。
反省はしたふりにすぎないのか。
反省したとして、
はて、
反省されているのだろうか。
こんなにことばであふれているのに。
じぶんのことばっかし。
人が多すぎるから。
訳は単純。
たぶん違わない。
それにしても、
人の多いほうへ多いほうへ流れていく。
なぜだろう。
さびしんぼ?
とくにアジアはいちじるしい。
アジアはさびしんぼのかたまりなのか。
人がふえつづけるということは、
それ同量の厄介がふえることでしかない。
こんな地上に未来などない。
それでいいのだろう、
たぶん。
しったことか。
2025年11月11日
鈍感
味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚。
五感しかないのだろうか。
そんなはずはない。
気づかないままなのだろう。
新しい言葉が出ていない。
現代人は鈍感になっているのかもしれない。
第六感は不確かで、
あるかもしれないし、
ないかもしれない。
感覚は専(もっぱ)ら受動でありセンサーのようなもの。
人はことばとしてあるものしかあらわせない。
不確かな事柄も不確かということばがあればこそ、
朧気(おぼろげ)になる。
たとえば、
うま味。
味の素の開発とともにあらわれた。
新しい味である。
ニッポン以外では一般的ではない味も和食への関心とともに広がりをみせている。
和食のベースこそこのうま味にあるからだという。
なるほどわたくしも昆布だしとの出会いで、
料理作りの視界があきらかに広がった。
味覚のみならず人の感覚が五感で収まるはずはない。
五感しかないのだろうか。
そんなはずはない。
気づかないままなのだろう。
新しい言葉が出ていない。
現代人は鈍感になっているのかもしれない。
第六感は不確かで、
あるかもしれないし、
ないかもしれない。
感覚は専(もっぱ)ら受動でありセンサーのようなもの。
人はことばとしてあるものしかあらわせない。
不確かな事柄も不確かということばがあればこそ、
朧気(おぼろげ)になる。
たとえば、
うま味。
味の素の開発とともにあらわれた。
新しい味である。
ニッポン以外では一般的ではない味も和食への関心とともに広がりをみせている。
和食のベースこそこのうま味にあるからだという。
なるほどわたくしも昆布だしとの出会いで、
料理作りの視界があきらかに広がった。
味覚のみならず人の感覚が五感で収まるはずはない。
2025年11月04日
奴隷的ふるまい
奴隷とは。
この問いにこたえられるひとはすくない。
が、
奴隷的とはなんぞや。
この問いにはこたえられそうである。
みわたすと奴隷的なふるまいがいたるところにあるからだ。
奴隷的というのは奴隷のふるまいをしていながらそれに無自覚をいう。
サービス残業
誤魔化しが奴隷のあかしである。
単身赴任
なぜ家族とはなれてくらさなくてはならないのか。
その不自然さに無自覚ではなかろうか。
いずれも、
「しょうがない。」
この嘆息がでてくる。
ひとはそれらの事柄にたいして、
奴隷的なふるまいで応対している、
といえまいか。
きみは奴隷だ。
そのとおり。
奴隷でけっこう。
むしろ奴隷になりたい。
奴隷のほうがらく。
奴隷の意味は問うまい。
わかりっこないから。
ただ奴隷か奴隷ではない。
決め手はどこかにある。
奴隷でけっこう、
とは所詮、
奴隷になったことがない。
奴隷について無知だからいえる。
わたくしとて奴隷はしらない。
すべてが奴隷的なふるまいでしかない。
奴隷をしるひとは、
奴隷的な態度に敏感である、
とはかぎらない。
奴隷への前兆を知っているともかぎらない。
現代の奴隷はきづかぬうちに進行する悪性腫瘍のような癖をもつ。
悪性腫瘍とはいえ細胞の変異。
それも生物にはちがいない。
ゆえに厄介である。
魯迅、灯火漫筆におもう
https://fujunsports.seesaa.net/article/2016-12-23.html
この問いにこたえられるひとはすくない。
が、
奴隷的とはなんぞや。
この問いにはこたえられそうである。
みわたすと奴隷的なふるまいがいたるところにあるからだ。
奴隷的というのは奴隷のふるまいをしていながらそれに無自覚をいう。
サービス残業
誤魔化しが奴隷のあかしである。
単身赴任
なぜ家族とはなれてくらさなくてはならないのか。
その不自然さに無自覚ではなかろうか。
いずれも、
「しょうがない。」
この嘆息がでてくる。
ひとはそれらの事柄にたいして、
奴隷的なふるまいで応対している、
といえまいか。
きみは奴隷だ。
そのとおり。
奴隷でけっこう。
むしろ奴隷になりたい。
奴隷のほうがらく。
奴隷の意味は問うまい。
わかりっこないから。
ただ奴隷か奴隷ではない。
決め手はどこかにある。
奴隷でけっこう、
とは所詮、
奴隷になったことがない。
奴隷について無知だからいえる。
わたくしとて奴隷はしらない。
すべてが奴隷的なふるまいでしかない。
奴隷をしるひとは、
奴隷的な態度に敏感である、
とはかぎらない。
奴隷への前兆を知っているともかぎらない。
現代の奴隷はきづかぬうちに進行する悪性腫瘍のような癖をもつ。
悪性腫瘍とはいえ細胞の変異。
それも生物にはちがいない。
ゆえに厄介である。
魯迅、灯火漫筆におもう
https://fujunsports.seesaa.net/article/2016-12-23.html

