そのために哲学は機能しなかった。
ひとが死のうとしている。
そのとき、哲学があれば、ひとは死なずにすむかもしれない。
哲学が有用かどうか、それはもんだいではない。
そも学問は有用なのかどうか。
津波がおしよせる。
それをもくぜんとしながら、学問は有用なのだろうか。
わたくしにはわからない。
逃げること。
生きのびること。
そこにこそ、哲学はあっていいのではないだろうか。
指針となるべきものをもっていてもいいのではないだろうか。
「津波といってもみんなさわいでないし、たいしたことはないだろう。」
同調性バイアスを結果的にみちびきだせたとしても、
次、おなじような状況になればおなじような行動をする。
それがひとである。
そうではなく。
ひとをたすけられるのはひとをおいていない。
だとすれば、まずたすかるひとがたすかること。
それをなによりも最善とする。
ひとをたすけようとしておなくなりになったひとはおおい。
もしあのときたすけにいかなかったら、のちの人生を後悔したであろう、というひとはおおい。
なぜか。
哲学が不毛であるから、ではなかろうか。
いのちはかけがえがない。
と反応するしか手段をもっていないから、にほかならないのではなかろうか。
もし、うごけないひとをたすけようとするときに。
たすけられるひとの命が巻添えをくわない方法こそをだいいちに想定するべきである。
ひとをたすけるにはたすけるひとがいきなければならない。
この決心をうながすためにこそ哲学は欠くことのできないものになるのではなかろうか。
あなたが死ねばたすけられる命はない。
いのちをたすけるのはいのち。
いのちがあってこそべつのいのちをたすけられる。
まずはたすかるいのちをたすけること。
それが最優先。
ひとをたすけることは次善かどうかではなく、なによりも優先はあなたがたすかること。
いきる。
核心はここにある。
哲学の息吹きがあるのではなかろうか。
ラベル:哲学