2022年05月30日

独占インタヴュ ディープインパクト

むかし、
ディープインパクトにインタヴュしたことがあります。

勝てなかったね、
というと、
負けたほうがすくないよ、
といっていた。
どうして負けたのさ、
ってきいたら、
いっつも、そとそとで走ってきたから、
競われたら焦ってしまって、
っていってたなぁ。
あれでは勝てないよ、
ともいっていた。

こちら(ニッポン)では縦長にばらけた展開の競走になるよね。
邪魔にならないような配慮がされるのかな、
そうおそわっているのだろうか、
そこ、じゃまじゃま、ってな具合なのかな。
とにかくコロニ(馬群)ができにくい。
でもね、
欧州やU.S.A.の騎手ならばどの距離の競走でも、
最短距離で走らせるべきだとおもっている。
それが競走馬の負担をいちばん軽減できる。
だからコロニができる。
だのに、
ここ(ニッポン)ではそうじゃない。
むしろコロニをさけるような競走になっている。
競走馬よりも対人に重きをおいているようにみえる。
ということは、
競走馬にとって、
よけいな距離を走らなければならなくなる。
そとへそとへってなるじゃない。
これがけっこうこたえるわけさ。
スタミナだって無尽蔵ってなわけないんだから。
それをここ(ニッポン)の競馬サークルのひとたちはわかってないな。

海外で活躍できる馬はたくさんいるよ。
それはたしかです。
でも、ここ(ニッポン)の騎手がそういった塩梅(あんばい)だから、
勝てないのさ。
中央競馬会なんて、騎乗数すくなすぎですよ。
騎手は騎乗数にまさるものないんだから。

ディープインパクトは、
なんでもきいてきいて、
うれしそうにいうと、
こんどはいつくるの。
むこうへ駆けていった。
また質問しにいこうとおもっていたら、
永遠にあのよにいってしまいました。南無
posted by 細野不巡 at 13:19| 競馬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月25日

たべもの本位制と石高(こくだか)

ひとはたべものをすてる。
へいきですてる。
けれど、おかねはすてない。

どうぶつはおかねにはめもくれない。
が、たべものはすてない。

ひととどうぶつのちがいは、
じつはこんなところにある。

紙をたべものだと認識するどうぶつは、
紙幣ならたべようとするのかもしれない。
が、
インクの味に違和感をいだき、
噛んですぐ、
ペッとはきすてるかもしれない。

そんなこと、しっていらぁ。
そう、あなたもわたくしも、
そんなことは百も承知。

ただ、
たべものはできるのに時間がかかる。
けれど、
おかねは鋳造できるし、
紙幣は輪転機で、す~いすい。

わたくしはおもう。
貨幣制度をたべもの本位制にする。
と、
江戸時代の石高という発想はけっしてふるくさいものなのではなく、
理にかなう。
運用方法を根本からやりなおせば、
まっとうな制度たりえるのではなかろうか。
posted by 細野不巡 at 15:25| ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月21日

みんな、こどもだった

くたびれたら、
やすむことだ。
くたびれているのに、
やすもうとしない。
それはすでにやまいである。
くたびれているのに、
気づかないなんて。

ひといきつく。
早朝、
まどをあけて、
そとの空気にふれる。
子どもの詩「サイロ」
でもよんでみてはいかが。

十勝のちびっこが書く詩。
へんてこりんな詩がおおいけれど、
おもわず、
プッ、
と吹いてしまう。
そんな詩篇のかずかず。

ちびっこにしか描けない、
「おとな」がわすれていることを、
そうっと気づかせてくれる。
清涼剤。
みんな、こどもだったんだ。

六花亭のすばらしいところは、
「サイロ」を、
主張などいっさいせず、
しずかにつづけていることだ。
おいしい菓子だけではないのだね。
おすすめです。

六花亭創業者の小田豊四郎さんが1960年にはじめた。
児童詩誌「サイロ」はこちら。

http://www.oda-kikin.com/sairo.html
posted by 細野不巡 at 06:04| ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月16日

しらなかったではすまないぜ

知人はわたくしにいった。

おまえの国は最低だな。
あいつのような男を自殺させるなんて。
最低の国だ。
ああいう男を、自殺させないようにすること。
それがおまえの国をまともでいさせる、ただひとつの道であったのに。
それすらできない。
最低の国ということだ。
あいつを自殺させては、いけない。
ああいう男こそ死においやってはいけなかったんだ。
それすらも、わかっていない。
ああいう男はほかにいない。
救世の意味をしっているのか。
そのことをしっているひとも、決定的にすくなかった。
おおければいいというものじゃないから。
すこしでも、いればいい。
わかっているとおもっていた。
おれが浅はかであったのだ。
わかっているとおもっていたのだ。
もうやつがいないいいじょう、おまえの国はおわる。
もうもどらない。
覚悟。
覚悟することだ。
おまえができること。
それはただひとつ。
あたえられたいのちをまっとうすることだけ。
ああいうおとこがいないのだから、
苦しくなる。
それはわかっていたはずだよな。
しらなかったではすまないぜ。
posted by 細野不巡 at 19:36| 掌編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月11日

いのち

有名なかたが自死すると、かならず、相談先の案内がでる。
たすけてほしいひとは、そこへ連絡するのかな。
そのことをしらない、おおくのひとは、またちがうみちをえらぶ。

なぜそれをえらんだのか。
それよりほかにてはなかったのか。
いきているひとたちは理由をさがす。
その意味をさぐる。

しかし、だ。
わたくしはおもう。
なぜそれをえらんだのか。
なぜ、そこにいたったのか。
そのわけをしりたがっているのは、
かれじしんなのではあるまいか。

ふとしたはずみでひとは死ぬ。
いともたやすく、
ひとは死ぬ。

いきていることは奇跡。
その奇跡が世界に80億。
ニッポンには1億3千万もある。
奇跡にはおもえなくなるのはやむをえまい。
が、
いきているということは、
奇跡いがい、
かんがえられないことなのである。

ためしにじぶんの腕でおのれのくびをくくってみるといい。
くるしくて、
その腕をゆるめるだろう。
奇跡とは、
つまり、
そういうことではあるまいか。

のこされたひと。
そのすがたを、
しずかにみつめることである。

のこされたひと。
いかにみじめで、悲痛であるか。
のこされたひとをだまってみるがいい。

自死。
それがいかに傲慢なふるまいであるか。
わかるはずだ。
posted by 細野不巡 at 09:45| ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月02日

イヴィツァ・オシムさん追悼

まず、ことわっておきたい。
メディアはしきりに、
オシムチルドレン
ということばをつかう。
教え子たちといえばすむ。
それとて異論はあるけれど。
薫陶(くんとう)をうけた、
というべきではないだろうか。

だから、
ニッポンはだめなのではないだろうか。
いつになったら、
grown-ups になれるのだろう。

こういうふうに、
ヨコモジ、カタカナことばをつかう。
それは、
いみがぼやける(いみをぼやかしたいのだろうか)、
いみが不確かになる(いみが不確かでいいのだろうか)。

無自覚で、
無反省な、
ニッポンを醸成(じょうせい)していることをわかっていない。
わるい癖でしかない。
わるい癖ならば、
意識してなおしていくべきだとおもう。

無自覚で、
無反省をオシムは問うた。
日本人の中位のメンタリティを、
かれはわれわれに問うた。
ちゅうとはんぱで満足するようにみえる、
そんなニッポンにかれは問うた。
それでいいのか、と。

わたくしはおもう。
その問いに、
いまだニッポンは、
こたえていない。
posted by 細野不巡 at 10:45| サッカーの基礎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする