2025年04月12日

真実はいつも少数派

天気予報はできているのだろうか。
気象予報士がふえて気象予報の精度はあがったのだろうか。
気象予報士を管轄する官庁の仕事がふえただけなのではないのか、
とは以前書いた。

気象予報を生業とする会社はふえて、
いったい気象庁の役割はどうしたのだろう。

気象庁はいうだろう。
天気だけではない。
地震や災害をあつかっている、と。

地震は予知できない。
ならば、
地球の現象である気象もまた予知できない。
そういうべきなのではあるまいか。

いや、
10分後ならほぼ○○パーセント、
24時間前なら○○パーセント、
予測できているという。
が、
予測を百分率でかたるそもそものまちがいにきづいていない。

地震予知とおなじで、
できないといったはずなのに、
わけのわからない確率をもちだす。
それはできないといった地震予知ではないのか。

気象は予知できるはず、
地震はいわばディジタルで、
気象はアナログだから分析しやすい。
あたらないのは地球のせいなのだ、
とでもおもいこんでいるのではないのか。

こんなにデータがあつまっている(たかだか100年)のに、
予測をまちがえる。
あたりまえだ。

データが不完全なこと。
データのとりかたにまちがいがある。
きづいていない要素がある。
固定観念にしばられたまま。
にもかかわらず。

コンピュータの解析力をあげたとて、
インプットする数式にあやまりがあればこたえとてちがう。
数字であればなおさらのこと。

真実はいつも少数派という。
その少数派すら産みだせていない。
それが現状なのではあるまいか。

つかわれるのはただ、
ただ、
税金である。
posted by 細野不巡 at 12:43| ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

士幌線 士幌(しほろ)

十勝三股 (とかちみつまた) と帯広をむすんだ。
士幌線 士幌(しほろ)

父親は地方官吏であった。
わかいころは野球部のキャッチーであった。
いちど地区大会に優勝したことを、
うれしそうにはなしてくれた。
写真もみせてくれた。

児童のころ、
八方美人的(自分では認識できていない)なこどもにとって、
父親のともだちのすくなさがきになっていた。

発端は、
母親が、
となりの後輩が、
自宅で麻雀を部下同僚と楽しんでいるのを、
聞くか目にする。
うらやましく感じたのだろう、
家でもつれてきたら、
と進言した。
すると父親は、
ともだちというものは、
たやすくできるものではない。
といった。
息子は、
圧倒的に父親をしのぐ年賀状の枚数をほこり、
ともだちづくりなぞ簡単だとのたまう。
部下をもてなしたい母親は落胆していた。

息子は年をかさねた。
父親の生きた年月をこえるころ。
ともだちのすくなさをなげくことはしなくなる。

ともだちは数ではない。
いなくてもかなしむことはない。
ひとり、
たったひとりで充分をしるのであった。

ラベル:ともだち
posted by 細野不巡 at 09:18| わがまち士幌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする