2022年05月11日

いのち

有名なかたが自死すると、かならず、相談先の案内がでる。
たすけてほしいひとは、そこへ連絡するのかな。
そのことをしらない、おおくのひとは、またちがうみちをえらぶ。

なぜそれをえらんだのか。
それよりほかにてはなかったのか。
いきているひとたちは理由をさがす。
その意味をさぐる。

しかし、だ。
わたくしはおもう。
なぜそれをえらんだのか。
なぜ、そこにいたったのか。
そのわけをしりたがっているのは、
かれじしんなのではあるまいか。

ふとしたはずみでひとは死ぬ。
いともたやすく、
ひとは死ぬ。

いきていることは奇跡。
その奇跡が世界に80億。
ニッポンには1億3千万もある。
奇跡にはおもえなくなるのはやむをえまい。
が、
いきているということは、
奇跡いがい、
かんがえられないことなのである。

ためしにじぶんの腕でおのれのくびをくくってみるといい。
くるしくて、
その腕をゆるめるだろう。
奇跡とは、
つまり、
そういうことではあるまいか。

のこされたひと。
そのすがたを、
しずかにみつめることである。

のこされたひと。
いかにみじめで、悲痛であるか。
のこされたひとをだまってみるがいい。

自死。
それがいかに傲慢なふるまいであるか。
わかるはずだ。
posted by 細野不巡 at 09:45| ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする