大日本帝国憲法はプロイセン憲法を範にした。
言葉は悪いが、パクったのである。
しかしそれはニッポンに暮らす人々の「範」にはならなかった。
大日本帝国憲法に違反する者は処罰される。
だが、罪なきその他大勢にとって、
大日本帝国憲法は権力者の力を鼓舞し強調する装置でしかなかった。
体制の護持である。
パクったはいいが、その後に起こりうる、まねきうる事態を想定できなかった。
統帥権干犯問題。
解釈論に終始。
統帥権とはなんぞや。
条項を整理し、修正するまでには至れなかった。
手続の欠落がそれを招いたのではあるまいか。
日本国憲法とて、大日本帝国憲法と似ている。
おしつけられたのは敗戦国なのだからその通りであろう
ではそのとき、
日本国憲法の根本思想(基本的人権・三権分立)を自ら描くことができる者は、
果たしていたのだろうか。
日本語を使い、
自力でこしらえ、
よりましなものへと変えていく。
その発想・知識・勇気・力を併せ持つ者はいたのだろうか。
パクるか、押しつけられるかしか経験のない者に欠けているもの。
それは徹底である。
徹底して検証する根気、
甘えを許さぬ判断のための認識と気力、
なによりも体力。
戦後、ニッポンはアメリカ合衆国をまねるべきであった。
徹底して、その成り立ちからをまねるべきであった。
その過程のなかで、徹底して学び直し、
清濁を見極め、
ニッポンを徹底して見直すべきであった。
そこにこそ自立の可能性が秘められていたはずである。
いまを謳歌できているのは、
この押しつけられた憲法下であることを忘れてはなるまい。

