奇抜といおうか、なんと迷惑なことであろうか。
その男には能力があった。
人を消してしまう。
たとえば、
子供と手をつないでいる親子。
その脇をタバコを片手にもつ女がいた。
「・・子供の顔にあたるじゃないか。」
その男、
「消えうせろ。」
あたまのなかでつぶやくと、
シュッと女は消えた。
つみなことに、
その男、
いっさい
ふりむかない。
女が消えたことはしらない。
かれこれ15,000人はその男のせいで消えている。
メディアは失踪については報道しない。
その男は、
ついぞ、
おのれの能力にはきづけなかった。
2025年12月12日
教師は模範であってはならない
教師は模範であってはならない。
儒教の、
「師曰く」が足枷として現代に残っている。
師とはまがりなりにも尊敬すべき人とおもわれている。
ここに教育のすごさ、
こわさがある。
記憶は求心力にしかならず、
ひろがりをとどめてしまう。
なんども声にだし心で念じた言葉には迷いがない。
迷うことこそ人らしさ。
にもかかわらず、
そこを削ぐ。
思考は止まったままになる。
知識あるものが知識のないものを教える、
のではなく、
多少の知識を持つ人(教師)が、
知識の少ない人(児童生徒)に教える。
教育とはそういうもの。
たかをくくることが必要なのではあるまいか。
教師とはそこらあたりのおばちゃんおっちゃんでいいのではないだろうか。
儒教の、
「師曰く」が足枷として現代に残っている。
師とはまがりなりにも尊敬すべき人とおもわれている。
ここに教育のすごさ、
こわさがある。
記憶は求心力にしかならず、
ひろがりをとどめてしまう。
なんども声にだし心で念じた言葉には迷いがない。
迷うことこそ人らしさ。
にもかかわらず、
そこを削ぐ。
思考は止まったままになる。
知識あるものが知識のないものを教える、
のではなく、
多少の知識を持つ人(教師)が、
知識の少ない人(児童生徒)に教える。
教育とはそういうもの。
たかをくくることが必要なのではあるまいか。
教師とはそこらあたりのおばちゃんおっちゃんでいいのではないだろうか。
2025年12月07日
2025年12月05日
2025年11月22日
かたいはなしですが
大日本帝国憲法はプロイセン憲法を範にした。
言葉は悪いが、パクったのである。
しかしそれはニッポンに暮らす人々の「範」にはならなかった。
大日本帝国憲法に違反する者は処罰される。
だが、罪なきその他大勢にとって、
大日本帝国憲法は権力者の力を鼓舞し強調する装置でしかなかった。
体制の護持である。
パクったはいいが、その後に起こりうる、まねきうる事態を想定できなかった。
統帥権干犯問題。
解釈論に終始。
統帥権とはなんぞや。
条項を整理し、修正するまでには至れなかった。
手続の欠落がそれを招いたのではあるまいか。
日本国憲法とて、大日本帝国憲法と似ている。
おしつけられたのは敗戦国なのだからその通りであろう
ではそのとき、
日本国憲法の根本思想(基本的人権・三権分立)を自ら描くことができる者は、
果たしていたのだろうか。
日本語を使い、
自力でこしらえ、
よりましなものへと変えていく。
その発想・知識・勇気・力を併せ持つ者はいたのだろうか。
パクるか、押しつけられるかしか経験のない者に欠けているもの。
それは徹底である。
徹底して検証する根気、
甘えを許さぬ判断のための認識と気力、
なによりも体力。
戦後、ニッポンはアメリカ合衆国をまねるべきであった。
徹底して、その成り立ちからをまねるべきであった。
その過程のなかで、徹底して学び直し、
清濁を見極め、
ニッポンを徹底して見直すべきであった。
そこにこそ自立の可能性が秘められていたはずである。
いまを謳歌できているのは、
この押しつけられた憲法下であることを忘れてはなるまい。
言葉は悪いが、パクったのである。
しかしそれはニッポンに暮らす人々の「範」にはならなかった。
大日本帝国憲法に違反する者は処罰される。
だが、罪なきその他大勢にとって、
大日本帝国憲法は権力者の力を鼓舞し強調する装置でしかなかった。
体制の護持である。
パクったはいいが、その後に起こりうる、まねきうる事態を想定できなかった。
統帥権干犯問題。
解釈論に終始。
統帥権とはなんぞや。
条項を整理し、修正するまでには至れなかった。
手続の欠落がそれを招いたのではあるまいか。
日本国憲法とて、大日本帝国憲法と似ている。
おしつけられたのは敗戦国なのだからその通りであろう
ではそのとき、
日本国憲法の根本思想(基本的人権・三権分立)を自ら描くことができる者は、
果たしていたのだろうか。
日本語を使い、
自力でこしらえ、
よりましなものへと変えていく。
その発想・知識・勇気・力を併せ持つ者はいたのだろうか。
パクるか、押しつけられるかしか経験のない者に欠けているもの。
それは徹底である。
徹底して検証する根気、
甘えを許さぬ判断のための認識と気力、
なによりも体力。
戦後、ニッポンはアメリカ合衆国をまねるべきであった。
徹底して、その成り立ちからをまねるべきであった。
その過程のなかで、徹底して学び直し、
清濁を見極め、
ニッポンを徹底して見直すべきであった。
そこにこそ自立の可能性が秘められていたはずである。
いまを謳歌できているのは、
この押しつけられた憲法下であることを忘れてはなるまい。
2025年11月17日
しったことか
なぜこうも人は面倒であるか。
がが強く、
いたみには弱い。
やっちゃいけません、
といっているのにやっちまう。
ダメだよとおそわったはずなのに、
ダメをする。
繰返す。
そりゃぁ、
いいこどだ、
なんてことはたまにしかしない。
人に迷惑はかけないとおもっているのに、
結果、
迷惑をかけとおす。
迷惑ついでにひらきなおる。
あちらでもこちらでも。
なんどもなんども繰返す。
心配いらない、
といいながら、
めっちゃ心配をかけつづける。
なんて人は厄介なしろものだろう。
なにかが足りないからなのだろうか。
なにかが抜落ちているのだろうか。
なにかが過剰なだけなのか。
足るを知らないだけではないのだろうか。
気づかないまま命をまっとうしているだけの人生ばかり。
人は、
いったい何人生まれ、
去ったのか。
これから何人生まれ去っていくのか。
いつまでも繰返せるものか。
反省はしない。
反省はしたふりにすぎないのか。
反省したとして、
はて、
反省されているのだろうか。
こんなにことばであふれているのに。
じぶんのことばっかし。
人が多すぎるから。
訳は単純。
たぶん違わない。
それにしても、
人の多いほうへ多いほうへ流れていく。
なぜだろう。
さびしんぼ?
とくにアジアはいちじるしい。
アジアはさびしんぼのかたまりなのか。
人がふえつづけるということは、
それ同量の厄介がふえることでしかない。
こんな地上に未来などない。
それでいいのだろう、
たぶん。
しったことか。
がが強く、
いたみには弱い。
やっちゃいけません、
といっているのにやっちまう。
ダメだよとおそわったはずなのに、
ダメをする。
繰返す。
そりゃぁ、
いいこどだ、
なんてことはたまにしかしない。
人に迷惑はかけないとおもっているのに、
結果、
迷惑をかけとおす。
迷惑ついでにひらきなおる。
あちらでもこちらでも。
なんどもなんども繰返す。
心配いらない、
といいながら、
めっちゃ心配をかけつづける。
なんて人は厄介なしろものだろう。
なにかが足りないからなのだろうか。
なにかが抜落ちているのだろうか。
なにかが過剰なだけなのか。
足るを知らないだけではないのだろうか。
気づかないまま命をまっとうしているだけの人生ばかり。
人は、
いったい何人生まれ、
去ったのか。
これから何人生まれ去っていくのか。
いつまでも繰返せるものか。
反省はしない。
反省はしたふりにすぎないのか。
反省したとして、
はて、
反省されているのだろうか。
こんなにことばであふれているのに。
じぶんのことばっかし。
人が多すぎるから。
訳は単純。
たぶん違わない。
それにしても、
人の多いほうへ多いほうへ流れていく。
なぜだろう。
さびしんぼ?
とくにアジアはいちじるしい。
アジアはさびしんぼのかたまりなのか。
人がふえつづけるということは、
それ同量の厄介がふえることでしかない。
こんな地上に未来などない。
それでいいのだろう、
たぶん。
しったことか。
2025年11月11日
鈍感
味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚。
五感しかないのだろうか。
そんなはずはない。
気づかないままなのだろう。
新しい言葉が出ていない。
現代人は鈍感になっているのかもしれない。
第六感は不確かで、
あるかもしれないし、
ないかもしれない。
感覚は専(もっぱ)ら受動でありセンサーのようなもの。
人はことばとしてあるものしかあらわせない。
不確かな事柄も不確かということばがあればこそ、
朧気(おぼろげ)になる。
たとえば、
うま味。
味の素の開発とともにあらわれた。
新しい味である。
ニッポン以外では一般的ではない味も和食への関心とともに広がりをみせている。
和食のベースこそこのうま味にあるからだという。
なるほどわたくしも昆布だしとの出会いで、
料理作りの視界があきらかに広がった。
味覚のみならず人の感覚が五感で収まるはずはない。
五感しかないのだろうか。
そんなはずはない。
気づかないままなのだろう。
新しい言葉が出ていない。
現代人は鈍感になっているのかもしれない。
第六感は不確かで、
あるかもしれないし、
ないかもしれない。
感覚は専(もっぱ)ら受動でありセンサーのようなもの。
人はことばとしてあるものしかあらわせない。
不確かな事柄も不確かということばがあればこそ、
朧気(おぼろげ)になる。
たとえば、
うま味。
味の素の開発とともにあらわれた。
新しい味である。
ニッポン以外では一般的ではない味も和食への関心とともに広がりをみせている。
和食のベースこそこのうま味にあるからだという。
なるほどわたくしも昆布だしとの出会いで、
料理作りの視界があきらかに広がった。
味覚のみならず人の感覚が五感で収まるはずはない。

